「命の光を持つ」  08.05.04
              ヨハネ8:12〜20

「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず
命の光を持つ」と、主イエスは私たちに語りかけてまいります。
 私たちは、暗闇の中ではなく、主イエスの光に照らされながら
生きているのです。
 主イエスが、そうおっしゃったのは、エジプトを脱出した
イスラエルの荒野の旅を思い起こす仮庵(かりいお)の祭りの
ときでした。水を与え必要を満たしてくださった神さまが、昼には
雲の柱、夜には火の柱によって、いつも旅路を守り導いて
くださったことを思い起こす祭りです。主イエスは、その火の柱の
ように、私たちを守り導くと宣言してくださいました。
 人の生涯が旅にたとえられることがあります。私たちが旅を
続けるこの世は、楽園というよりも、さまざまな石の転がる厳しい
荒野のようです。岩に進路を妨げられます。足をとられて、
こけそうになります。
 昔も今も、人の世はいつも荒野の様相です。人間の抱える
罪がこの世を荒野にしていくからでしょう。自己中心で愛のない
罪が、世を荒野にしていきます。そして、その世を闇が覆って
います。不安、畏れ、絶望といった暗い心が満ちています。
それは、神を見失っていることから深まる暗い心でありましょう。
 人は、そのような荒野を進んでいくためには、力が必要だと
考えてきたようです。自分の力を強めようと必死になってきたの
ではないでしょうか。しかし、力があっても、進めません。
力をつけた人間は、荒野をさ迷いながら、人とぶつかり、
傷つけあって荒野をいっそう荒れさせてきたように見えます。
 人は、神さまからの光がないと、世を進めません。
 「主に従い行く
(ゆく)は、いかに喜ばしき 心の空晴れて
光は照るよ。
 悪しき思い消えて心は澄むよ。
 恐れの影消えて力は増すよ。」   (こどもさんびか53)
 
主イエスに従い、その光に照らされる時に、神不在の闇の中に
身を置くのでなく、神に愛されている自分に気付かされます。
 罪の思いが取り除かれていきます。
 死の恐れでなく、永遠の命に導かれている希望の歩みとなります。